昨日、新たな仕事のご依頼を4件いただきました。
既に仕事をお受けすることはできない状態なのにこれではいけないと思い、コロナ禍以来の記事をアップします。
弊所は所長桑室の死去に伴い、新規の業務を受託できない状態となっております。
長年ご愛顧賜り、まことにありがとうございました。以前より本年末で営業終了の予定ではあったので今年は桑室と共にご挨拶にまわる予定でした。たくさんの方に支えられてここまで来られましたのに桑室よりご挨拶の場を設けられなかったことを心よりお詫び申し上げます。
1週間前の3月20日、桑室は87歳の人生を閉じました。
3月24日で88歳、米寿を迎えるところでした。
最期まで子どものように無邪気に人生を楽しんでいる、そんなひとでした。
昨年の7月末に軽いコロナから誤嚥性肺炎を併発し、闘病生活が始まりました。
以前から「ぽっくり逝きたい。日本は何で安楽死を認めへんのかなあ。」と口癖のように呟いていました。
「そうは言っても、京都は京大と府立医大で高度な医療が受けられるので簡単にぽっくり逝けないですよ」そう答える毎日でした。幸か不幸かそのとおり、府立医大病院に救急車で運ばれて危ない状態になりつつも何とか持ち堪えました。
下の記事でも書いてますが、「じっとしてられへん」と休日はほぼ京都にいなかった人が入院生活中ベッドでどんな気持ちで過ごしているんだろう、とても複雑な思いで毎日を過ごしてきました。
弊所は昨年12月に開業50周年を迎えました。3月24日は88歳の誕生日でした。
いい年して自分の誕生日を日めくりカレンダーに書き、ケーキを食べられることを楽しみにしていました。
最後にお祝いのケーキが食べられなかったのが残念でしたね。
そして毎月のように通っていた岐阜県関市の辻屋、どうせ食事を喉に詰まらせるなら最後に一口で良いから鰻を食べさせてあげたかった。
およそ桑室と私の関係は所長と従業員のそれではなかったように思います。
母(私)と中学生の息子(桑室)、先生と中学生の教え子、そんなふうでした。
2年前に奥さんを亡くしてからパンを食べる機会が増えました。毎回あんぱんとサンライズ、同じものしか食べないので野菜の重要性やバランスの大切さを説くと牛乳だけ飲むようになりました。娘さんにはサラダを食べてる、原田くんに叱られるからお菓子を控えていると嘘ついてましたね。
岐阜の辻屋に車で行くのを話すと叱られると思っていつもごにょごにょ言ってました。
2年前のお遍路も四国に2週に1回のペースで車で行くので窘めるのですが、基本は中学生なのでこそこそ出かけていきます。日帰りで松山の山寺をまわり車で800キロも走っていたことがありました。四万十に向けて金曜日の23時に出発して土曜日だけ1泊し、月曜日の1時(未明)に帰るなんてこともありました。このときは1200キロ以上走ってました。
とにかく信じられない行動力でした。
入院生活が始まる直前まで「原田くん、わし尾瀬行きたいんやけど無理やろか」、「金毘羅山行きたい、太宰府天満宮行きたい」と毎朝行きたい場所を呟いていましたね。
年度末に受けていた案件の引継ぎも終わりが見えてきました。
ふと視線を横に向けるとといつも隣に座っていた桑室先生の姿も奥さんの姿もありません。あれほど賑やかだった事務所は静寂に包まれています。
ああ、そうか。これがロスというものか。自分はこの世界をこんなに大切にしていたのかと毎日思い知らされます。
それでもお二人が残した宿題があります。50年かけて築き上げたお客様の引継ぎやいろいろな整理もまだまだあるのでできる限り片付けます。
桑室先生、きっと寂しくないですよね。天国で久しぶりに奥さんと仲良くケンカしてください。
桑室先生、奥さん、20年間明るく笑顔に包まれた楽しい時間を本当にありがとうございました。
※ご遺族は香典、供花をご辞退なさっていますが、お仏壇、ご遺骨は事務所3階に安置されています(入院前最後の8か月間は事務所3階で暮らしていました)。当面の間、月曜日から木曜日までは事務所も営業しておりますので皆様のお時間が許せばお線香をあげていただけると幸いです。ああ見えて寂しがり屋でした。